お昼前から、子ども達の声がしている、と思ったら、今日は子どもの日だった。
子どもの日だから子どもの声がしている、というわけではないのだろうに、楽しそうな幼児の声が響く。
「子どもの日」か……
子どもの日に何かしてもらったことはないような気がする。
子どもに興味のない親であった。
最近、「遊ぶ」ということについて考えている。
「遊ぶ」ってなんだろう。
遊んだことのない私にはわからない。
もちろん、小学生の頃はよく友達と遊んだ。
放課後、一度家に帰ってランドセルを置くと、校門前で待ち合わせた。
どうせ学校に戻るくらいならそのまま学校にいればいいだろうに、と今なら笑ってしまうが、皆そうだった。
校庭の鉄棒で、履いているブルマにスカートの裾を入れ込み、即席のパンツにして、鉄棒をくるくる回り、これなら下着は見えない、と思っていた。
そのくせ、スカートを一緒に鉄棒に巻き付けて、滑り易くして回ったり。
運動は嫌いだったがそんなことをしながら、友達とおしゃべりをした。
友達の家に行くこともあった。
家の前の道路で、いつまでもゴム跳びをしていた。
長い輪になったゴム紐を用意し、一人の子どもが肩幅くらいに開けた足首に引っかけ、反対側にいる子どもと対になって、ゴム紐を引っ張って安定させる。
ゴム紐を跳ぶ子どもは、後ろ向きで向こう側のゴムを足首に引っかけ、リズムを刻むようにステップをし、今度は二本引っかけては外し、また一本引っかけステップ、の繰り返し。
詳しく覚えていないが、こんな感じ。
「チャチャ」と呼んでいた。
このゴム跳びを長々とするのである。
もちろんおしゃべりと。
安上がりな遊びであった。
ゴム紐一本で、ずっと遊べた。
そういうものを「遊び」というのかと思っていた。
子どもの頃のお金のかからない、他愛ない遊び。
数年前、
「お前は遊ばないのか」
と、知っている人に強い口調で、言われたことがある。
随分ひどい言い方をするものだ、と思った。
しかし、そう言われてみると、私にはそれ以外の遊びの経験がなかった。
その後いくつもの修羅場を経験し、一年半前に精神科に入院した時、検温に訪れた看護師に、
「遊ぶってどういうこと?」
と聞いてみた。
20代の男性看護師は、趣味が何か、他の看護師さん達にも聞いてみたら?と言ってくれた。
日替わりで、私の受け持ちになった看護師達に聞いてみると、様々。
マウンテンバイク。
釣り。
旅行。
料理。
遊びとは、趣味のことなのか?
今書いてて気付いた。
いつの間にか、遊び=趣味。と認識していたようだ。
いや、気分転換になること、を聞いたのだっけ?
一番最初に助言してくれた看護師さんが、遊び=趣味=気分転換。と認識して、私にそうアドバイスしてくれたのかもしれない。
入院中のことなので、はっきり違いを意識していたわけではなかった。
遊び、趣味、気分転換。は同じものなのか?
確かにどれも、リフレッシュになり、身体がゆるみ、ほっとする自分の時間。と、とれる。
例えば、ここに「サーフィン」を当てはめてみよう。
遊び=サーフィン
趣味=サーフィン
気分転換=サーフィン
なるほど。
見事に当てはまるではないか。
私には、これが足りなかった。
遊びが、小学生の感覚のまま止まっていた。
私は15歳から、学校に行っていない。
遊びが何か知らない。
社会人としての経験も浅いので、お金を出す遊びが何かわからない。
カラオケ?
何回も行ったことがある。
人前で歌うことがあまり好きではない、と、やっと気付いた。
ずっと調子が悪く、本を読めずにいたが、最近また読めるようになってきたのが、本当に嬉しい。
今は十代の時読んだ、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」を読んでいる。
ここまで深かったのか。
若い時には気付くことのなかったチャンドラーの世界。
男くさい、人間くさい、味わいある名著である。
描かれる人間が一人一人、生き生きと、人間くさい。
初めて読んだ時は、ストーリーを追いかけるのがやっとだった。
40代後半となって、改めて読み返し、良い書物というものは何度読んでも味わい深く、また戻ってきたくなるものだ、と感慨深い。
そして、本を読む。という行為ほど、私らしいものはない。
と痛感した。
小さい頃から本を読むことが好きだった。
本から手が離れなかった。
いつも、本の中の世界にいた。
知らない風景も、知らない感情も、本で学んだ。
日常に本がある世界。に身を置いていた。
そうだった。
私は本を読むこと、で成り立っていた。
今また何年ぶりかで、本のある生活に戻ってきて、私は私を取り戻した。
本を読むこと。
それは私の居場所。
私の趣味。
リラックス。
私の遊びだ。
外に出て、お金をかける趣味を探すのは、これから。
私が今、やっと自分を見つけた。
他の遊びを見つけるのは、これから。