先日、タクシーに乗った。
運転手の男性は、私と同じような年代。40代。あるいは30後半か。
目的地の駅名を告げると、
どっちが早いかな、と一瞬迷って、左にハンドルをきった。
4月にも関わらず暑い日で、車内は冷房が効いていた。
4月でも タクシーの中はもう暑いんですよ。夏なんてハンドルを握る手が陽に焼けちゃって。手袋嫌いなんで、食器も素手で洗っちゃいます、と気さくに言う。
いつもバスで通る道路へ出た。
運転手さんは独身なのだろうか。
がっしりした体躯で、好青年といった感じだ。
落ち着いた態度は既婚者に見える。
手袋の話から料理の話題になった。料理もすると言う。
男性なのにきちんとしてる。
最近ずっと調子が悪いので、ちゃんとした料理を作っていない。
「たまに自分の作ったものが、すごく美味しい時ってありますよね」
と言うと、深く頷く運転手さん。
トンカツの話が出た。
地元にある店のトンカツが好きで、自分でも作ってみるんだけど、トンカツにかけるソースがいけない。
どうしてもあの味が出なくてね。
市販のトンカツソースとは違うんですよ。もっと甘い味なんです。
それで知り合いに頼んで、その店のソースを買ってきてもらったら、やっぱり美味しくて。
「そのお店の特別のソースなんですね」
そうなんです。
運転手さんはこの、トンカツにソースを合わせた味に惚れ込んでいるのだ。
その味に惚れ込んでいるお客さんが、その店には他にも大勢いるのだろう。
そして話題は、鯖の味噌煮の話へ。
「ご飯が進みますよね」
私が言うのは、鯖の缶詰めのことだ。
運転手さんは私を、「鯖の味噌煮を作る人」と思ったのだろう。
何回か作ってみたんだけど、魚臭いのが取れない。お袋何かしてたんだろうけど。
鯖の味噌煮…
作ったことがなかった。
最近、料理らしい料理をしていないし、魚料理はせいぜい「ブリの照り焼き」くらいしか作ったことがない。
なので、魚の臭みの取り方も知らない。
「ブリの照り焼き」を作った時は、生姜のすりおろし(チューブの)を使った気もするが、どうだったろう。
随分前のことだ。
ここ数年それどころじゃなかった。
運転手さんの疑問に答えられない…。
梅干しを加えるような気もするが、変なアドバイスは出来ないので黙っていた。
お母上はご健在なのだろうか。で、あれば聞くことも出来るはず。
でも、そこは聞けない。
いろいろやってみても分からなくて。臭み取るのって何かなと、ずっと考えてるんですが。
お袋に聞いておけば良かったんだけど、お袋亡くなったんで。
だから、お客さんで知ってそうな人がいたら聞いてみてるんです。
タクシーは駅前バスロータリーに滑り込んだ。
運転手さんは、鯖の味噌煮が作りたいのだ。
でも、ごめんなさい。私には分からない。
「料理人さんに聞いてみたら…」
「いや、そこまでじゃなくていいんです。家庭料理なんでね」
私は礼を言って、タクシーを降りた。
運転手さんは、お母さんの味を再現したくて、試行錯誤しているのだ。
「鯖の味噌煮」は、懐かしい「お袋の味」なのだ。
人は、自分に愛情を込めて作ってくれた人の味を忘れない。
鯖の味噌煮を作ることで、運転手さんは母親に、再び接しているのだ。
私にはそんな温かい「お袋の味」は存在しない。
そういう、愛しい「思い出の味」を持っている運転手さんは幸せだ。
きっとこれからも、その母の愛で、真っ直ぐ生きて行くに違いない。
何も持たない私も、真っ直ぐ生きて行こう。