ふと、
日常生活を送っている中で、父のことが頭によぎることがある。
そして、そんなことはないのだ。父は最近亡くなったのだ。
という現実に面食らう。
人はまず、亡くなった人にしてもらったことを思い描くのか。
思い出そうとしても、父にしてもらったことが何もない。
何もしてもらったことがない、とは本当だろうか?
何かをしてくれた父の姿を思い描くことは出来ない。
父は何もしてくれなかった。
改めてそう思う。
私が思い出せる父は、いつもよそを向いていて、私の方を見てくれたことはなかった。
子どもに無関心な勝手な父だった。
唯一思い出せるのは、クリスマスに必ずチョコレートを買ってきてくれたこと。
たぶん会社にチョコレートを売りにくる人がいて、クリスマスだから、という理由で、同僚達に混じって買ってきたのだろうと思う。
会社に売りにくる、と聞いたことがあったのかもしれない。
父がしてくれたことで思い出せるのは、そのことだけだ。
チョコレートを買ってきてくれた時でさえ、こちらを見てくれた記憶がない。
父が私を見ていない。
私の原風景である。
そんな父を、私は全く尊敬することなく育った。
むしろ反面教師にしていた。
ああはなりたくない、という強い思いは、今でも私を形作っていて、私が人と同じような幸せを、手に入れられない要因となっているのだろう。
そんな父でも、晩年はすっかり丸くなり、信じられないほど穏やかになった。
以前と違う父を見るにつけ、父がこんなに穏やかで寛容でさえあれば、私の人生は違うものになったろうと、
冷めた目で見る自分がいた。
父の車で通った道路が見える。
あの道を父と一緒に通ったのだ。
その父はもうこの世界にいない。
前屈みで、がに股で歩く男性を見かける時、とっさに父が歩いている、と錯覚する時、やはりそれは父ではないのだ。決して。
父が亡くなった?
人が亡くなるということはどういうことだろう。
ある人がついさっきまで、そこにいたのに、その肉体を置いていなくなってしまうこと。
持ち主のいなくなった肉体だけが、そこにあること。
もう戻ってこないこと。
腰が悪く前屈みで、がに股で歩いた父は、もうこの世界にはいない。
もう存在しないのだ。
私は父のことを悪く思ってはいない。
ただ私の人生で、父がいないことは、今まで一度もなかった。