複雑性PTSD、うつ、過敏性腸症候群(IBS)のきらめき日記

生きにくさはあるけれど、キラキラしたものも見つけてやっていこうよ、自分の人生。鬱と過敏性腸症候群を抱えてます。

ふと、

日常生活を送っている中で、父のことが頭によぎることがある。

そして、そんなことはないのだ。父は最近亡くなったのだ。

という現実に面食らう。

人はまず、亡くなった人にしてもらったことを思い描くのか。

思い出そうとしても、父にしてもらったことが何もない。

何もしてもらったことがない、とは本当だろうか?

何かをしてくれた父の姿を思い描くことは出来ない。

父は何もしてくれなかった。

改めてそう思う。

私が思い出せる父は、いつもよそを向いていて、私の方を見てくれたことはなかった。

子どもに無関心な勝手な父だった。

唯一思い出せるのは、クリスマスに必ずチョコレートを買ってきてくれたこと。

たぶん会社にチョコレートを売りにくる人がいて、クリスマスだから、という理由で、同僚達に混じって買ってきたのだろうと思う。

会社に売りにくる、と聞いたことがあったのかもしれない。

父がしてくれたことで思い出せるのは、そのことだけだ。

チョコレートを買ってきてくれた時でさえ、こちらを見てくれた記憶がない。

父が私を見ていない。

私の原風景である。

そんな父を、私は全く尊敬することなく育った。

むしろ反面教師にしていた。

ああはなりたくない、という強い思いは、今でも私を形作っていて、私が人と同じような幸せを、手に入れられない要因となっているのだろう。

そんな父でも、晩年はすっかり丸くなり、信じられないほど穏やかになった。

以前と違う父を見るにつけ、父がこんなに穏やかで寛容でさえあれば、私の人生は違うものになったろうと、

冷めた目で見る自分がいた。

父の車で通った道路が見える。

あの道を父と一緒に通ったのだ。

その父はもうこの世界にいない。

前屈みで、がに股で歩く男性を見かける時、とっさに父が歩いている、と錯覚する時、やはりそれは父ではないのだ。決して。

父が亡くなった?

人が亡くなるということはどういうことだろう。

ある人がついさっきまで、そこにいたのに、その肉体を置いていなくなってしまうこと。

持ち主のいなくなった肉体だけが、そこにあること。

もう戻ってこないこと。

腰が悪く前屈みで、がに股で歩いた父は、もうこの世界にはいない。

もう存在しないのだ。

私は父のことを悪く思ってはいない。

ただ私の人生で、父がいないことは、今まで一度もなかった。